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壊れそう
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壊れそう
第1話 —— 図書館の七月
◇ ◇ ◇
Blackbird singing in the dead of night
Take these broken wings and learn to fly
All your life
You were only waiting for this moment to arise
真夜中にさえずるブラックバード。その折れた翼で、飛ぶことを学べ。
お前はずっと、この瞬間が来るのを待っていたんだ
— Blackbird / The Beatles
◇ ◇ ◇
〜〜〜

7月は、毎年少し手加減を忘れる。

エアコンが効いているはずの図書館の中まで、夏の光は容赦なく差し込んでくる。外の熱気は遮断されているのに、紫外線だけが窓を素通りして、床のタイルを白く焼いていた。最近の洒落た公立図書館だ。エントランスを入るとカフェが併設されていて、コーヒーの香りが静かに漂っている。読書コーナーのソファはなかなかのクッションで、沈み込むと立ちたくなくなる設計だ。

僕はその日、取材で来ていた。

図書館の特徴を比較できるアプリを開発中だ。この世にないものをコツコツと取材して、AIに投げ込んで世に放つ。それが今の仕事だ。ピラミッドを作った人々とおんなじだ。コツコツとね。胸のプレスのネームプレートが、蛍光灯の下で鈍く光っていた。

メディア・映像文化の棚で、僕は本の背表紙を眺めていた。

そのとき、気配がした。

〜〜〜

最初は視野の端に入っただけだった。

白いシャツを腰で縛り、デニムのショートパンツに白いキャンバススニーカー。図書館にいる誰もが目で追っていた。本を読んでいるフリをしながら、目で追っている。僕もそうだった。ただ、僕は手が止まっていることに気づかなかった。ずいぶん長い間、同じページを見ていた。気がつくと、文字は意味を失って、ただの黒い記号の集まりになっていた。本というのは不思議なもので、こちらが読む気を失った瞬間に、向こうも読まれる気を失う。残るのは紙の重さだけだ。

なのにヨーロッパのモデル並みのオーラを放つ美少女が、同じ棚のエリアをゆっくりと歩いていた。

mokaはそれほど美しかった。

7月の日差しは軽く気温を30度まで押し上げ、エアコンディショナーの効いた図書館内部にまで強い紫外線を放ってくる。大きな窓のガラスを通り抜けて、光は床にきれいな四角形を作っていた。その光の中で、彼女の白い肌は陶器のようだった。でも陶器じゃない。イルカのような弾力が放たれていた。少女の透明さと、大人の肉体が同居していた。その矛盾が目を離せなくさせた。

10頭身だ。完璧だ。

ちょっと顎を上げて、上を見て歩くところがたまらない。書架の上段に視線を投げる横顔は、何かを探しているというより、棚そのものに敬意を払っているように見えた。瞳が背表紙の一番上の一冊から、ゆっくりと下へ降りていく。一行ずつ文章を読むみたいに、タイトルを一冊ずつ確かめていく。途中で気になるものがあると、視線がそこで一度止まる。それから、また次へ進む。彼女の目には、棚に並んだ本が、ばらばらの集合ではなく、ひとつながりの長い文章として映っているように見えた。

指先がゆっくりと背表紙をなぞっていく。一冊、また一冊。指の腹が紙の縁に触れて、また離れる。彼女はそれを儀式のように繰り返していた。途中で右手の人差し指を、ふと唇に当てた。何かを思い出そうとするときの仕草だ。あるいは、頭の中で著者の名前を確かめているのかもしれなかった。指は唇に触れたまま、二秒ほどそこにあった。それから離れて、また背表紙に戻っていった。その二秒のあいだ、僕の呼吸も止まっていた気がする。

館内のどこかで、誰かがページをめくる音がした。エアコンの低い唸りと、入口に併設されたカフェから漂ってくるコーヒーの香り。そういうものが全部、彼女の歩く速度に合わせて緩やかになっていった。読書コーナーのソファに沈み込んでいる人たちまで、一瞬だけ顔を上げた。誰もが知らんふりをしようとして、誰もが失敗していた。図書館という場所は、人を盗み見るのに向いていない。視線を隠すには明るすぎるし、咳払いひとつにも理由が必要になる。

僕が高校生だったら120パーセント恋に落ちる——いや、1000パーセントだ。書棚の前でmokaが振り返った瞬間、その瞳と目が合った。深くて静かな瞳だ。湖の底にある水のような色をしていた。ショートパンツから伸びる脚。白いシャツの向こうに透けるイルカのような肢体。120パーセントが1000パーセントに書き換わった瞬間はそこだった。

彼女は何かを言いかけて、やめた。唇がわずかに動いただけだった。たぶん、目当ての本のタイトルを口の中で繰り返していたのだろう。それから髪を耳にかけた。ごく自然な仕草だった。なのに、その動作のあいだだけ、図書館の時間が一拍止まったように感じた。

やれやれ、と僕は思う。

こんな年齢になってまで、図書館で二十代の女を目で追っている自分が、僕はそんなに嫌いじゃなかった。むしろ、まだそういうことに反応できる神経が生き残っていることに、軽い安堵を覚えていた。錆びついていたわけじゃないらしい。ただし、それを認めるのと、行動に移すのは別の話だ。僕は前者だけを許して、後者には鍵をかけている。鍵の場所も、もう何年か前に忘れた。

欲望ではなく、完成された何かへの敬意。それが「僕」とただの男を分ける。彼女を眺めることと、彼女に欲望を抱くことは、似ているようで全然違う種類の行為なのだ。前者は美術館で絵の前に立つことに近く、後者は——まあ、後者については今はどうでもいい。少なくとも、今この場所では。

しかし僕はいささか歳をとりすぎた。離婚も経験している。

こういう紳士は簡単に恋に堕ちてはならない。ハードボイルドなんだ。

35年前に奮発して買ったARMANI COLLEZIONIのグレーのサマースーツと、エアリズムの白Tという出立だ。20代の僕は清水の舞台から飛び降りるつもりで買った。今も体型を保ってきていられる。元は取れた。胸ポケットにはプレスのネームプレートが斜めに留めてあって、左手には取材用のメモ帳とボールペンが握られていた。本当はここで、ある作家の蔵書寄贈について短い記事を書く予定だった。だった、というのは、その予定がさっきから少しずつ後回しになっているからだ。ボールペンのキャップは閉まったままで、メモ帳の最初のページは白いままだった。白いページというのは、見ているうちにだんだん挑発的になってくる。何も書かれていないということが、何かを書けと急かしてくる。

僕は本に視線を戻した。戻したつもりだった。でも文字はやっぱり記号のままで、活字の列はただ黒い波みたいに揺れていた。本を閉じれば負けだ、という気がした。何に負けるのかは自分でもよくわからなかったけれど。

mokaは一冊抜き出した。表紙を確かめ、少し首を傾けて、また棚に戻した。判断は速かった。たぶん三秒もなかったと思う。違う、と決めるまでの時間が、彼女の場合はとても短い。迷いがない。本との関係において、彼女はすでに自分の好みを知っている人間の歩き方をしていた。それは年齢に似合わない確かさだった。

それから二歩、横にずれた。スニーカーのゴム底が床を擦る音が、かすかに鳴った。次の棚に向かって、彼女は今度は首をわずかに左へ傾けた。棚の段が斜めになっているわけでもないのに、彼女のほうが棚の角度に合わせていく。背表紙のタイトルを読みやすい角度を、首が勝手に探していくのだ。顎が少しだけ上がる。瞳が、また一番上の段から降りはじめる。

その瞳は、もう僕のいる側の世界を見ていなかった。タイトルの活字を一文字ずつ追っているあいだ、彼女の周りからは音が消えていた。少なくとも、彼女の中では消えていた。集中している人間の顔というのは、それ自体がひとつの風景になる。表情がないのに、何かが満ちている。僕はその顔を、たぶん記事よりも長く眺めていた。

彼女の周りの空気だけが、別の温度を持っているように見えた。窓から差し込む光がショートパンツの裾に当たって、デニムの繊維まで一本一本見えそうだった。腰で縛った白いシャツの結び目が、歩くたびにわずかに揺れる。その結び目に、僕は妙に惹かれた。完璧な造形のなかで、そこだけが彼女自身の手で結ばれた、生活の痕跡みたいに見えたからかもしれない。朝、出かける前の数秒で結ばれたであろうその結び目は、彼女がこの世界の住人であることの、ささやかな証明のようだった。

彼女は本を探していた。目的の棚はまだ見つかっていないようだった。

〜〜〜

声をかけてきたのは、mokaからだった。

胸のプレスのネームプレートに目を止めて、少し首を傾けた。

『雑誌か何かの取材ですか?』

興味というよりは、確認に近い口調だった。媚びていない。ただ聞いている。

『いや、アプリの取材です」と僕は言った。「図書館を比較するアプリを作っていまして』
『図書館を?』
『各地の図書館を取材して、AIに分析させて、地図に落とす。使いやすい図書館を探したい人向けに』

彼女はわずかに目を細めた。笑っているのか、考えているのか、どちらかわからない。

『面白い』

断言するように言った。

そこから話が動き出した。彼女がここに来た理由を聞いた。卒論の下調べだという。テーマはまだ固まっていない。マーケティングをベースに考えていて、メディアとの接点を探っている段階だと言った。この棚のエリアをうろうろしていたのはそのためだ。

『どのあたりを見ていたんですか』

彼女が指差した先は、僕が今まさに見ていた棚だった。

『じゃあ、僕が役に立てるかもしれない』
〜〜〜

棚の前で、気づいたら長い時間が経っていた。

普段は話さない。テレビ局を走り回っていた頃のこと、ロケハンのこと、バブルの東京のこと。CX(フジテレビ——業界ではチャンネルの周波数から「CX」と呼ぶ)はまだ新宿区河田町にあった。朝五時のロケ出発。プロデューサーの要求を全部実現するのが仕事だった。怒鳴られる側。眠れない側。一台三十万円のショルダーフォンを肩にかけて、ポケベルが鳴り続ける中を走っていた。

話しながら、やれやれ、と思った。なぜ話しているんだろう。誰にも話してこなかったことだ。十年も二十年も、自分の中で畳んだままにしてあった布のようなものを、僕はいま広げている。広げているのは僕で、広げさせているのはたぶん、目の前のこの人だった。

mokaの瞳を見ながら話していた。

湖みたいな瞳だった。底が見えそうで見えない。夢の湖面、と一瞬だけ思って、それ以上は考えないことにした。

ちょうど君と同じくらいの歳だった頃、と僕は言った。毎日かけずり回っていた。終電も始発も区別がつかなくて、河田町の靖国通りでタクシーを拾えるかどうかが一日の出来栄えを決めていた。眠る時間は削るものだと思っていたし、削れることが才能だと思っていた。今思えばずいぶん馬鹿だったけれど、馬鹿だったから続けられた、とも思う。

——こういうことは、君みたいな人に話しておくべきな気がして。

口に出してから、それが老婆心という古い言葉に近いものだと気づいた。自分の中にそんな感情がいつの間にか芽吹いていたことに、少し驚いた。

mokaは聞いていた。

本を持ったまま、棚にもたれて、静かに聞いていた。相槌を打つでもなく、急かすでもなく、ただ聞いていた。聞かれている、というより、引き出されている、という感じに近かった。この人には、人に話させてしまう何かがある。理由はわからない。わからないまま、僕はまた次の一文を口にしていた。

今はどんな仕事をしているんですかと聞かれた。AIとアプリの話をした。この世にないものを作る話をした。そのためにコツコツ取材して回っている話をした。

『ピラミッドを作った人々とおんなじだ。コツコツとね』

言ってから少し恥ずかしくなった。気取ったことを言ったと思った。

でもmokaは笑わなかった。

『それ、好き』

また断言した。

マーケティングの話になった。彼女が今考えていることを聞いた。メディアとブランドの関係。SNSが変えた消費者の動き。ターゲットに届くメッセージの設計。整理されていない考えが、しかし確実に方向を持っていた。

「いい勘してますよ」と僕は言った。

『そうですか』
『マーケティングって、結局は恋愛と一緒なんですよ』

mokaが眉を動かした。

『相手が何を求めているかを考えて、タイミングを見て、少しだけ先回りする。押しすぎず、引きすぎず。刺さる言葉は一行でいい』
『それ、どこで習ったんですか』
『40年前のPOPEYEとHOT-DOG PRESSです』

一拍あって、mokaが吹き出した。

笑い声が静かな図書館に小さく響いた。司書がちらりとこちらを見た。

〜〜〜

「コーヒー、飲みませんか」と聞いたのは僕からだった。

エントランスのカフェが頭にあった。話の続きをする場所として、自然だった。

mokaはスマホを見た。画面を一秒見て、また顔を上げた。

『ごめんなさい、ちょっと病院寄ってくね』
『病院?』
『定期検診。うん、まあね』

笑っていた。何でもないふうに笑っていた。

僕は何も聞かなかった。聞けるものでもないとわかっていたから。ただ、その「まあね」という言葉が、しばらく頭に残った。言葉の後ろに、何かが隠れているような気がした。でも確かめる方法がなかった。

「じゃあ次の約束をしよう」と僕は言った。

『次?』
『食事。ちゃんと座って話せる場所で』

mokaは少し考えるふりをした。本当は考えていなかったと思う。

『いいですよ』

それだけ言った。

スマホを取り出して連絡先を交換した。タメ口になっていた。いつの間に。

別れ際、mokaは少し顎を上げて歩いた。背中が遠ざかっていく。

『ちょっと顎を上げて、上を見て歩くところがたまらない。でも立派な女性だ。ボーイフレンドからのデートを断って、図書館で調べ物をしに来る女だ。堅実だ。』

振り返った。

『えっ?』
『想像だ』
『バカじゃない』

やれやれ、と思った。でも悪い気はしなかった。カフェの誘いも定期検診でかわした。簡単には来ない。その「来なさ」が、彼女の瑞々しさの正体のひとつだと、あとになってわかった。

〜〜〜

図書館を出ると、7月の熱が一気に体を包んだ。

遮蔽物のない夏の光は正直だ。誤魔化しがきかない。僕は少し目を細めた。プレスのネームプレートをポケットにしまった。

次の食事の約束をした。郊外のレストランを決めた。

まさかそのレストランが臨時休業しているとは、このとき思いもしなかった。

〜〜〜
◇ ◇ ◇
壊れそう
第2話 —— メニューに落ちる日
◇ ◇ ◇
〜〜〜

「いいですよ」と私は言った。

即答だった、ということに、私はあとで少しだけ驚いた。

私は普段、即答する女ではない、と自分では思っている。買い物でもメニューでも、一度は迷う。誰かに「これでいい?」と聞かれたとき、「いい」と返す前に、もう半秒だけ、舌の上で確かめる癖がある。それなのに、その日の私は即答してしまった。

『次、食事だ。ちゃんと座って話そう』

そう彼が言った。私たちは図書館の本棚の前から、入口のカフェのほうへ歩こうとしているところだった。夏の光が大きな窓から差し込んでいて、私のスニーカーのつま先が、床の白い四角形の中に半分だけ入っていた。彼の瞳の奥が、ほんの少しだけ、光ったように見えた。あれは、彼自身が知らない種類の光だな、と私は思った。

『いいですよ』

ふつうなら、もう少しだけ間を置く。「ちょっと考えてみますね」とか、「予定見て連絡します」とか、そのくらいの薄い膜を一枚はさむ。友達はそれを「大人の対応」と呼ぶ。「すぐOKしたら軽く見られる」と言う。「既読すぐつけたら負け」とも言う。私はそのたびに、「負け」って、誰に向かって言っているんだろうと思う。誰と勝負しているのか、私には見えない。けれど、答えはまだ持っていない。

その夜、ベッドに入って、私は自分が即答したことを天井の隅で何度かなぞった。

なぞって、わかった気がした。

考えなかったんじゃない。考えるまでもなかったのだ。彼は、一回で賭け金をぜんぶ最初に出してくれた。それを、たとえば三日後に「やっぱりいいです」と分割払いに崩すのは、なんだか違う気がした。違う、と思ってしまった以上、即答するしかなかった。

それから一週間が経って、七月のある朝が来た。

〜〜〜

カーテンを開けると、ベランダのプランターの葉が、光に洗われていた。

バジル、ミント、パセリ、大葉。実家に帰るたびに母が分けてくれる苗だ。母は、私が大学のために借りたこの部屋を「あんたの城」と呼ぶ。城を維持するのに必要なのは植物よ、と言う。城、という言い方が、私はちょっと笑える、と思っている。城に住んだ人間も、親戚の集まりで「ちゃんと検診行ってる?」と尋ねられたりするんだろうか、と。父も母も、家族の集まりに行くと、誰かしらの白衣を畳んだあとの匂いをまとっている。私は子どもの頃からそれを、ちょっと近寄りがたい匂いだと思ってきた。「近寄ってこないで」と思っていたわけではない。むしろ、誰も近寄ってこないでくれて、たすかっていた。

そのことについて、私はまだ、うまく説明できない。

ただ、たすかってきた、ということは、たぶん、別の何かを失ってきた、ということでもある。たすかった分だけ、私は誰かに踏み込まれずに来た。人間は、踏み込まれないと、どうなっていくんだろう。私はその答えも、まだ持っていない。

誰も踏み込んでこない世界は、安全だけど、ちょっと寒い。

それは、わかってきた気がする。

〜〜〜

何を着て行こう、と私は思う。

クローゼットの前に立つ。前回の図書館の白いシャツとデニムのショートパンツは、もうないことにする。一度見せたものは、二度同じ形では出さない。同じ服装で会いに行くのは、礼儀として何かを失う気がする。「あの日の私」を持ち越さない。今日の私を、今日のために組み上げる。

シックだけど、肩は出す。

そう決めて、ハンガーをひとつずつ確かめていった。郊外のレストランは、たぶんちょっとドレッシーだ。ジーンズだと若すぎる、ロングワンピースだと重い。私の体は、肩のラインが、たぶん私の中で一番ましだ、ということを私は知っている。「美しい」と思っているわけではない。ただ、化粧のノリが悪い日でも、そこだけは何とかなる、という意味で、便利な部分だと思っている。

黒のキャミソールに、薄手の白いリネンのジャケット。下はテラコッタのフレアスカート。足元はストラップのフラットサンダル。ぜんぶ、肩と鎖骨の線に視線が落ちるように組んだ。

鏡の前で、私はそれを「装置」と呼んでいる。

呼んでいることを、私は誰にも言わない。

装置、というのは、たぶん良くない言葉なんだと思う。彼に向かって組み上げるのに、それを装置と呼ぶのは、どこかで彼を侮ったような響きがあるから。でも他の言い方も、私はまだ見つけられていない。「身支度」では足りないし、「お出かけの準備」では浅すぎる。私がやっているのは、「彼から見たい私」をひとつ、組み上げる作業だ。だから、たぶん装置、と呼ぶのが、いまのところ一番正直だ。

眉を描く。

これがいちばん時間がかかる。眉のかたちで、その日の女の体温が決まると私は思っている。今日は、強すぎず、優しすぎず。「ちゃんと話そう」と言われた。だから「ちゃんと」に見える眉を描かなければならない。きれいに整った、控えめでいて意志のある、ちゃんとした人の眉。

それは描ける。

描きながら、私はもう一段だけ深いところで、こう思っている。

「ちゃんと」に見える眉は描ける。でも、「ちゃんと」を、超えてみせる。

その「超えてみせる」がどこに向かっているのかは、私もまだうまく言えない。彼の中の私は、たぶん「育ちのよさそうな、感じのいい大学生」あたりだろうと思う。それで間違っていない。私はそういう娘として育てられた。でも、それで終わっていない。終わらせたくない、というのが、もう少し正確かもしれない。

彼が見ている私は、彼の投影でしかないはずだ。それは、わかっている。投影されていることに腹を立てる女は、たぶん駆け引きをする。投影を高く売りつけるのが駆け引きだ。私は、それをやらない。代わりに、こう思う。

あなたが見ている私より深い私を、あなたに見せに行く。

それは、たぶん、能動だ。

〜〜〜

口紅をひいた。

ひいたあとで、ふと、自分で笑いそうになった。

朝のうちに、私はずいぶん遠くまで考えた。装置を作りながら装置文化のことを考え、過保護のことを考え、即答のことをなぞり直して、超えてみせる、まで来た。

そして、靴下が左右逆だった。

左の足首に右用、右の足首に左用。ベージュの薄手のソックスは、左右がある作りなのだった。誰にも見えない違いで、私だけが足首を見て気づく違いだ。深いことを考えた朝の終わりがこれか、と思う。私はそれを脱いで、両方とも素足で行くことにした。

家を出る瞬間、私は小さく息を吐いた。

装置の完成、ということだ。

〜〜〜

11時ちょうどに、白いセダンが下に着いた。

窓越しに見て、すぐに彼の車だとわかった。色落ちしていないブルージーンズ、ブルーのチェックシャツ、クリームと茶の細いニットタイ、その上にぴったりの紺のニットジャケット。色のレイヤーが、ぜんぶ、業界の人間の年齢の上手なごまかし方だった。「ジーンズが新しすぎる人は、たぶん仕事で失敗しない人だ」と、私は前から、なんとなく思っている。

助手席に乗ると、彼は「やあ」と言って、ハンドルに手を添えたまま、私を一秒だけ見た。一秒の見方が、手慣れていて、嫌じゃなかった。それから前を向いた。

『冷房、寒くない?』
『ちょうどいいです』
『途中、音楽は何でも変えていいから』

それで、車は走り出した。

スピーカーから音楽が流れていた。意外だった。サカナクションの「ネイティブダンサー」が、低い音量で鳴っていた。彼の世代がサカナクション、というのが意外だったのではない。彼が、自分の運転中の車に、この曲を流しているということが意外だった。

踊る自分自身を見ていた。

歌詞のひとつが、私の耳のあたりに、軽くひっかかった。

私は、車のサイドミラーに反射する自分の肩を、ちょっとだけ確かめた。装置として組み上げた肩のラインだ。それを今、私は、信号の景色の中で、ちらっと見ている。歌詞のとおりだ、と思った。私はちょうど、踊る自分自身を見ている女として、いま助手席に座っている。

季節は僕らを追い越していくけど。

歌詞はそう続いた。彼の指が、ハンドルの上で軽くリズムを取っていた。指の関節が太い。ずいぶん長く、いろいろなものを掴み続けてきた手だ、と私はぼんやり思った。私のほうの季節と、彼の季節は、別の速さで動いている。けれど、いまこの瞬間だけは、たまたま、同じ車のスピーカーから同じ歌が流れている。それを、不思議にも切なくも感じない自分が、私はちょっと意外だった。

『店の話、していい?』

彼が言った。

『ぜひ』
『キノコがちょうどよくソテーされたパスタを出すんだ。郊外の隠れ家。あとで、硬めのプディングが出る。それに、限界点ぎりぎりまで焦がしたカラメルがかかってる。あれを食べないと、行った意味がない、ぐらいに思ってる』

笑いそうになった。

『念を押してきますね』
『念を押すよ。プディングの話は念を押さないと、始まらない』

彼の目が、運転をしながら、ちょっとだけ、子どもみたいになった。私はその目を見て、装置を一枚、緩めた。緩めるつもりはなかった。緩んだ。

〜〜〜

駐車場に入って、エンジンを切った。

彼が車を降り、店のほうを見て、立ち止まった。私もシートベルトを外して降りた。降りたところで、彼が立ち止まっている理由がわかった。

ガラスの扉の中央に、白い紙が一枚、テープで留められていた。

『臨時休業のお知らせ』

筆ペンで書かれていた。下に、小さく、「親族の葬儀のため」とあった。

ふたりとも、二、三秒、その紙を見ていたと思う。

私はすぐには言葉が出なかった。この場面で何を言うのが正解なのか、私は知らなかった。「あら」とか「残念ですね」では浅い。「お気の毒に」では、私たちと無関係の他人の死を、ファッションのように使うことになる。私は黙って、彼の横顔を見ていた。

彼は、紙からしばらく目を離さなかった。それから、ふと表情を緩めて、こちらを見た。

『うちに、アンチョビとオイルがある。EVO(エクストラバージン・オリーブオイル)の、いいやつ。あと、冷凍庫に、小ぶりのイカが、ある』

そこで一呼吸あった。

『直売所で野菜を仕入れて、家でパスタを茹でよう。レモンは、たっぷり絞る。たっぷり絞らないとイカは立たない』
『立たない、ですか』
『立たない。これは、念を押す』

その「念を押す」を、彼はもう一度言った。

私は、その瞬間に、彼が私のために、ある言い訳を作ってくれたのだということが、たぶんわかった。

予約していた店が休みだった。仕方ないからうちで作る。仕方ない、というのは、ふたりにとっての公式の理由だ。私はそれに乗ることができる。「はい、仕方ないですね」と言って、彼の家に向かうことができる。

ほんとうのところは、もう少し別のところにある。

彼の即興の調達力に、私は感心している。彼が、看板を見たあとの三秒で、家にあるものを並べ直して、ストーリーをひとつ組み上げた、その手の早さに、私は感心している。それから、彼が、それでもまだ「念を押す」と言うとき、私のほうに、いまから家に行くという事実をどう装うかの足場を、わざわざ用意してくれている、ということに、私は感心している。

私は彼に対して、「いきなり家には行きません」と言うこともできた。言うことは、たぶん「正しい」のだと思う。22歳の女が、知り合って二度目で、年上の男の家に行くのは、たいていの教科書では推奨されない。

でも、私は、それより前に、もうメニューに落ちていた。

メニューに落ちた、ということにしよう、と私は思った。

私たちは店のメニューに行くはずだった。それが閉じていた。彼は、家のキッチンを「もうひとつのメニュー」として差し出してきた。私は、メニューを差し出されたから、メニューを選んだ。それだけだ。それだけ、ということにしよう。

『直売所、近いんですか』

私はそう聞いた。声がきれいに出てきたので、自分でも安心した。

『五分。レモンを買いに行こう』
『念を押すんですね、レモン』
『念を押す。三回くらいまでは、念を押す』

私たちは、車に戻った。

〜〜〜

直売所には、地元のおばあさんたちが、椅子を並べて座っていた。

私はパセリの大きな束を見て、これだ、と思った。隣にイタリアンパセリ、その隣にバジリコ、さらに隣に大葉。葉物が四種、申し合わせたように並んでいた。彼の家のベランダにあるかもしれないハーブを、念のため、ぜんぶ買い足すことにした。香りで仕上げる男だ、と私は思った。主役で勝負しない、香りで勝負する。

『葉っぱ、好きですね』
『好き。香りは安いんだ。値段に対して、戻ってくる多幸感が、いちばん大きい』

私は笑った。多幸感、という言葉を、実際に発音する人を、私は数年ぶりに見た。

国産のレモンが、籠に積んであった。

『三つ』
『三つ?』
『念を押した分』

私は、レモンを三つ、自分の手で取って、籠に入れた。

それから、彼が支払いをした。私は財布を出さなかった。出さない、と決めて出さなかったわけではない。出すタイミングを、なんとなく、彼が引き取ってしまった。私はそれを、軽く受け取った。育ちのいい家の娘は、たぶんこういうとき、財布を出すことに慣れていない。私は自分のその慣れていなさを、たまに少しだけ、居心地悪く思う。今日は、思うことにした。けれど、それを言葉にしたら、たぶん彼はがっかりする。だから、言わなかった。

〜〜〜

彼の家は、住宅地の奥の、黄色い壁の二階建てだった。

三角屋根に、煙突が立っていた。煙突から煙が出るのを、私はまだ見たことがない。これから何度通うとしても、煙が出る場面に立ち会うかどうかは、たぶんわからない。煙突がついている家は、煙が出るかどうかとは別の理由で、煙突をつけているのだと、私はそのとき思った。誰かが昔、ここに「ヨーロッパの家」を作りたかった。その夢の残骸のような家の前に、私はいま立っている。

玄関を抜けて、リビングに入った瞬間、私は息を一拍だけ呑んだ。

そこは、住む家ではなかった。

正確には、住む家であり、同時に、撮影スタジオだった。大きな白いテーブル、業務用の照明スタンド、三脚に載ったカメラ、壁際に立てかけられた反射板、棚にずらりと並ぶレンズ、奥にiMac、その横に外付けハードディスクの塔。仕事と暮らしが分かれていない。むしろ、暮らしの上に仕事が薄く乗っている。あるいはその逆かもしれなかった。

キッチンに、巨大な冷蔵庫があった。

業務用かと思うほど大きかった。家庭用のいちばん大きいやつ、というサイズだ。ステンレス両開きの、堂々としたやつ。彼がそれを見て、ちょっと笑った。

『これ、玄関から入らなかったんだ』
『えっ?』
『電気量販店の人が運んできて、玄関の幅で詰まった。庭側のガラスサッシを一回外して、そこから搬入した』

私は黙って冷蔵庫を見た。

サッシを外してまで搬入される冷蔵庫は、たぶん、買った人の意志がそれだけ強かった、ということだと思う。彼が買ったとは限らない、と私は思った。彼の口ぶりが、自分が選んだ家具について話している人の口ぶりと、ちょっとだけ、違っていたから。

私は、それ以上は聞かなかった。

聞いたら、彼の地層が一段、私の前で剥がれてしまう。地層は、彼が自分で剥がす速度で見せてもらえばいい。私から鶴嘴を入れるのは、たぶん、礼儀として違う。

季節は、いろいろな人を、いろいろな速度で追い越していく。

私はそれを、ぼんやり、もう一度思った。

〜〜〜

キッチンに、二人で立った。

私は、白いリネンのジャケットを脱いで、椅子の背にかけた。黒のキャミソールの肩が、ちょっとだけ出る。彼はそれを、特に何も言わないで、フライパンを出した。普通に出したのが、たぶん上手だった。

『パスタ、リングイネがあるけど、どう?』
『リングイネ、好きです』
『ちょっと楕円形なんだ、知ってる?』
『楕円形、聞いたことだけ』
『食べるとわかるよ』

並んで作業を始めた。

レストランで向かい合うのと、キッチンで並ぶのは、別の生き物だ、と私はその瞬間に思った。向かい合うほうは、表情の交換がメインだ。並ぶほうは、肩と肘と、まな板の音と、お湯の沸く音と、油のはぜる音と、立っているときの呼吸の長さで、すべてが交換される。装置は、向かい合うときには維持できる。並ぶと、維持の継ぎ目が見える。

私はパセリを刻んでいた。

包丁が、彼のいい包丁だった。たぶん、高い。一束のパセリを大胆に細かく刻んでいると、香りが立ち上がってきて、その香りで、私は急に、子どもの頃のある夏の親戚の集まりを思い出した。叔父さんがどこかから持ってきたハーブ。誰かの誕生日。「お仕事の話はやめましょう」と母が言ったので、私はそういえば、いつもこういう集まりは、誰かが「やめましょう」と言うことで成立していたな、と思った。話していい話と、話してはいけない話のあいだに、薄い壁紙が一枚だけ貼られていて、その壁紙は永遠に新品だった。誰も触れないから、ずっときれいなままだった。

私は、その壁紙のいちばん端っこに、ずっと立っていた女の子だった。

その記憶は、香りが立ち上がってからの一秒の間に通り過ぎて、私はまた、パセリの上に視線を落とした。

『moka、レモン、絞ってもらっていい?』

彼の声がした。

私はうなずいて、手を洗って、まな板を移動して、レモンを半分に切った。

絞った。

たっぷり、念を押す分量を、私は自分の手で絞った。

絞っているあいだ、彼が小ぶりのイカに薄く粉をはたいて、油の温度を確かめていた。横顔が、こちらを見ていなかった。料理を見ているとき、彼は私を見ていない。装置から外れた横顔だ、と私は思った。

私はそれを、ちょっとだけ、盗み見た。

これが、たぶん本当の彼かもしれない。

そう思った直後に、私は、「レモン、足ります?」と聞いた。

聞いたとたん、彼は私のほうを向いて、笑った。

『足りる。完璧』

私は装置に戻った。戻ったことを、自分でも、ちょっとおかしく思った。

〜〜〜

食卓で、私たちは向かい合った。

リングイネは、確かにスパゲティを少し楕円形にしたような麺で、口の中で違った主張をして愉快だった。大量のバジルとパセリを細かく刻んだ、彼風のバジリコは、爽やかで、ソアーヴェがよく合った。

『ソアーヴェ、好きなんですよね』
『好き。優しい白って意味のソアーヴェ。名前ごと、好き』

ソアーヴェというイタリア語が「優しい・爽やか」という形容詞でもあるんだ、ということを、私は知っていた。けれど、知っている、と言って解説する女に、私はならない。それは決めている。たぶんそれも、私の育ちの、よくない使い方をしないための、自分への約束のひとつだ。

カラマリフリットが、湯気を立てながら、白い大皿の真ん中に置かれていた。

その皿の隅に、彼が、半分に切ったレモンを二つ、添えていた。下ごしらえで使ったのとは別の、新しい一個。彼は何も言わなかった。私が絞るだろうと思っている、という顔をしていた。私はそれを、引き受けた。

レモンの半分を、両手で包んだ。

ゆっくりと、盛大に、絞った。

果汁は思っていたよりも勢いよく落ちた。一滴、二滴、と数えていられたのは最初の数滴だけで、あとは細い線になって、衣の上に、黄色い湖をいくつも作った。フリットの衣はまだ温かくて、揚げたての油の薄い膜の下で、繊維のひとつひとつがレモンを待っていた、というふうに見えた。

透明な果汁が、衣の表面を一度すべって、ふっと、ある一点で止まる。止まった瞬間、衣がそこを許した。果汁は、止まった場所から、衣の中へ、ゆっくりと、染み込んでいった。色が変わるわけではない。ただ、衣が、最初よりほんの少しだけ、柔らかい色になった。

一枚の衣の中に、果汁の通り道がいくつも生まれていた。果汁は最短の線を選ばなかった。衣の繊維のあいだを、迷うように、つたわって、ある場所で立ち止まり、ある場所で重なって、濃くなっていった。重なったところは、ほんの少し、黄色が濃かった。

私は、もう半分のレモンを手に取った。

それも、同じ皿の上で、最後の一滴まで、絞った。

一個分の果汁を、ぜんぶ、衣に浴びせたことになる。彼が「念を押す」と言った、たっぷりのレモン。私はその念を、自分の手で、二回に分けて、押した。衣は、それを、ぜんぶ受けた。受けて、ぜんぶ、染み込ませた。

二人でフリットを、等分にフォークで分けた。

『立った?』
『立ちました』
『念押した甲斐があった』

私たちは、それで、声を出して笑った。

〜〜〜

食後、彼が水出しコーヒーを、二つのグラスに注いだ。

冷蔵庫から出してきた瓶のコーヒーは、深い色をしていて、明らかに、私が来る前から仕込まれていた時間の塊だった。私が来る前から、この家にコーヒーは出来上がっていた。それが私には、ちょっと、嬉しかった。私は、来る前から待っていてもらったような気がした。実際にはそうじゃないのかもしれないけれど、そう感じることを禁じる理由は、たぶんなかった。

『ベランダに、出てもいい?』
『もちろん』

ベランダには、植物が並んでいた。バジル、ローズマリー、タイム、レモンバーム。私の部屋のと、半分くらい同じだった。世話をしている人の手の入り方が、ちょっと、不思議だった。手が入っているような、でも、毎日ではないような、独特のリズム。私はそれ以上は、誰の手かを聞かなかった。

しばらく、二人で、植物のあいだに立っていた。

彼が、コーヒーをひと口飲んで、それから、ふっと前置きをした。

『夢の話、誰にもしたことないんだけど』

私は、グラスを少しだけ持ち直して、彼のほうを見た。

『ずっと同じ夢を見るんだ。湖の夢。湖面が、すごく静かで。何も音がしない。誰もいない。風は吹いている。湖面が、ほんの少しだけ、揺れている』
『それは、一回ですか』
『いや、ずっと。何年も。場所はわからない。地図にもない。たぶん日本のどこかにあると思うんだけど、行った記憶はない』
『行ったことのない場所の夢を、ずっと?』
『うん』

彼は、ベランダの手すりに手を置いて、しばらく黙った。それから、こちらを見ないまま、続けた。

『……君の瞳を見てると、その湖面を思い出すんだ』

私は、自分の鎖骨のあたりに、ちょっとだけ熱が来るのを感じた。

たぶん、文字通りに、彼は嘘を言っていない。

そして、文字通りに、それは、彼自身のなかの湖面の話だった。

私の瞳に映ったのは、私の瞳ではなくて、彼の中の湖面だった。彼は、私を通して、自分の湖面を見ていた。投影、ということだ。けれど、彼は、それを「秘密の開示」として包んで、私に差し出した。だから、嘘ではない。私が彼の投影の中に置かれたことは、嘘ではない、彼の側からは。

私は、それを口に出さなかった。

「あなたの瞳に映ったのは、あなた自身の湖面でしょう」と言うことは、できる。たぶん、できる。でも、それを言ったら、彼は二度と、私に夢の話をしないだろう。私は、彼が次に夢の話をする日のために、いま黙ったほうがいい、と思った。

踊る自分自身を見ていた、と、頭の隅で歌詞がもう一度鳴った。

彼もまた、踊りながら、踊る自分を見ている男だ。

私は、その横顔を見た。

そして、自分でも意外なくらい、すっと、こう言っていた。

『その湖、一緒に探しに行きましょうよ』
〜〜〜

彼が、グラスをベランダの手すりに置いて、私のほうを向いた。

一秒だけ、何も言わなかった。

それから、「ちょっと待って」と言って、リビングに戻った。

私はベランダから、彼の動きを目で追った。彼は、本棚の下のほうから、すごく分厚い、表紙が褪せた何冊かの本を引き抜いて、白い大テーブルの上に、どさっと置いた。

『県別のロードマップ』

そう彼は言った。

『ロケマネ時代のやつ。今はみんなアプリだから、こんなの誰も使わないんだけど』

近づいて、見た。

私は、こんな地図を、初めて見た。

すごく分厚かった。表紙はぼろぼろで、角が丸まっていた。彼が一冊めくると、いきなり、土地の細部が、道一本、川一本、林道の支線まで、紙の上に印刷されていた。私はちょっと、声が出なかった。アプリの地図と、別の生き物だ、と思った。アプリの地図は、世界をなめらかにしている。この紙の地図は、世界を、紙の上に、道一本、川一本、ぜんぶ置いていた。

『すごい』
『すごいでしょ』

彼は、神奈川、長野、新潟、と、三冊を順番に開いた。

長野のページに、付箋が何枚か、すでに貼ってあった。山岳地帯と、湖と、湿原。彼の指が、付箋の一枚を、優しく押し直した。

『この辺、湖がたくさんある。長野は泊まりかな』
『神奈川は』
『日帰り。芦ノ湖は、たぶん夢の湖じゃない。きれいすぎる』
『新潟は』
『妙高の周り。これも泊まり』

そう言って、彼の指が、地図の上を、ゆっくり、滑った。

それから、彼の指が、ふと、地図の枠の外、つまり山梨のほうへ、流れた。彼の目が、一秒だけ、遠くなった。

『山梨に、いいところを知ってる』

それだけ言った。

それ以上は、言わなかった。

私は、その「いいところ」が、彼にとってどういう「いいところ」なのかを、聞かなかった。聞いたら、彼の目の遠さが、こちらに戻ってこなくなる気がした。彼の地層は、彼の速度で見せてもらえばいい。私はもう一度、自分にそう言った。

地図を覗き込んでいるあいだ、私は装置を完全に降ろしていた。

降ろした、ということに、私はすぐには気づかなかった。

降ろしたのではなくて、装置の材料がなかったのだ。県別の紙の地図というものを、私は今日初めて見た。初めて見るものの前では、装置は組めない。素直な驚きしか、残らない。私は、装置を組む暇もなく、地図に夢中になっていた。

歳の差というやつが、紙の上で、いっしゅん、平面になった。

紙の地図の上には、季節が追い越していくものは、何も載っていなかった。

〜〜〜

彼が、地図から顔を上げた。

私のほうを、まっすぐ見て、それから、ふっと、ちょっとだけ笑った。

笑いながら、こう言った。

『……本当にいけるの?』

私は、彼の目を見た。

その目には、装置と、装置を超えた何かと、ぜんぶの差分が、いっぺんに含まれていた。

私は、

〜〜〜
〜〜〜

※引用:サカナクション「ネイティブダンサー」(作詞・作曲:山口一郎/2011年)

◇ ◇ ◇
壊れそう
第3話 —— 8月の見開き
◇ ◇ ◇
〜〜〜
『いけるのか?』

そう呟いたのは、たぶん、僕の方が先だった。

mokaの「本当にいけるの?」という問いを、僕はうまく受け止めきれずに、自分の側へ投げ返してしまったらしい。地図の上の指は、そのまま動かなくなっていた。長野のページに貼られた古い付箋を、意味もなく、もう一度、押し直していた。

ボールが空中にあるあいだ、mokaは、地図を覗き込んだまま、しばらく黙っていた。

息は浅くなく、深くもなく、ちょうど、ページの紙の厚みに合わせたくらいの呼吸だった。指の腹が、長野の県境の上に、軽く乗っていた。爪は短く整えられていて、爪の白い部分は、ほんの一ミリもなかった。

それから、ふっと顔を上げて、僕に向かって、こう言った。

『私の目とおんなじ湖みたいじゃない』

顎が、ほんの少しだけ、上がった。

僕の中の何かが、その瞬間に、確定した気がした。

確定する、というのは、たぶん、そういうことなのだろうと思った。直前まで決まりようのなかったものが、相手の顎の角度ひとつで、急に決まる。決まったものが何なのかは、僕にもまだ、よくわからなかった。

ただ、決まったのは、たぶん、僕の方だった。

mokaの方は、ずっと前から決まっていて、ただ、僕の側がそれに気づくのを、待っていた。そんな順番だったような気がした。

〜〜〜

僕がまだ若かった頃、光の粒の話を、どこかの雑誌で読んだ覚えがある。

時代が90年代に書き変わるころの話だ。

見ていない時と、見ている時で、振る舞いが変わる粒があるのだという。なんて変な解釈をしたものだ、と当時の僕は、ちょっと得意げに思った。深夜の編集室で誰にも見られていないとき、僕はずいぶん、だらしない男だった。誰かが部屋に入ってくると、姿勢が一秒で変わった。粒の話と僕の話は、たぶん、別の物理だ。それでもそう思った当時の僕は、どこか嬉しそうだった。

サインコサインタンジェント。

高校の頃に、僕はそれを、教室の窓際で覚えた。三角形の三つの辺の比率を、小さなアルファベットの呪文にしてしまうあの感じが、たぶん、僕は好きだった。式の上で世界が決まる、というのは、十七歳の僕にとって、青春そのものだった。サインの音と、コサインの音と、タンジェントの音が、それぞれ違う色で、夕方の教室に並んでいた、ような気がする。

mokaの顎が上がった、その一瞬の角度を、僕は、やっぱり、三角関数で測りたくなる。

四十年近く経っても、そういう癖は、抜けないものらしい。

〜〜〜

ロケマネの血が、四十年ぶりに、沸いた。

それは突然だった。地図を見ていたら、勝手に体が動き出していた。

長野のページにあるいくつかの湖の中から、夢の景色に近いものを絞り込もうとしていた。湖面の向こうに、雪を抱いた山岳があるべきだった。湖面までの距離、山が画角に収まる比率、夕日の落ちる向き。

『なんで山の高さがわかるの?』

mokaが、地図から顔を上げて、僕に聞いた。

唇が、わずかに開いて、すぐに閉じた。閉じたあとの口の形は、最初の口の形と、ほんのわずかに、違っていた。

『あぁ、三角関数だよ。サインコサインのね』

それから僕は、ロケハンの技法を、ひととおり、mokaに話した。台本のト書きから情景を想像する。夕日の落ちる向き、浜辺の方角、山の高さ。それを地図に落として、撮影場所を絞り込む。監督をそこに連れていけば、かなりの確率で褒められた。だって三角関数だ、と。

mokaは、うなずきながら聞いていた。

うなずく、というよりは、吸収する、という聞き方だった。彼女の頭は、たぶん、僕が話しているあいだ、聞きながら、自分の側に並べ替えている。それで、節々で、首が、ほんの十度くらい、前に落ちる。落ちて、戻って、また落ちる。話の落ちていく先が、彼女の中で組み上がっていく音まで、聞こえそうだった。

そういう聞き方をする人を、僕はこれまで、あまり見たことがなかった。

『サインコサインタンジェント、って、響き、いいですね』

mokaが、ぽつりと、言った。

声は、ロケハンの話の最後の音と、ちょうど、つながっていた。間がなかったわけではない。間はあったが、間の中で、彼女の中の何かが、もう、こちら側に渡っていた。

『響き』
『うん。なんか、夕方みたい』

mokaの目線が、地図のあるあたりから、少しだけ、上がっていた。上がったといっても、僕の顔まで届く高さではなかった。たぶん、テーブルの上の空気の、ある層に、目線が止まっていた。彼女は、そこで、サインコサインタンジェントの三つの音を、もう一度、自分で、確かめているようだった。

僕は、地図の上で、指を一回、止めた。

夕方みたい、という形容を、僕は、これまでの四十年、誰からも、聞いたことがなかった。

それは、僕の十七歳の窓際の感覚と、ほとんど同じものだった。彼女がそれをどこから取り出したのか、僕には、わからなかった。たぶん、彼女自身にも、わからない。彼女は、僕の話を聞きながら、勝手に、自分の側で、夕方を作ってしまったらしかった。

mokaは、続けて、こう言った。

『いいチームだったんですか』
『うん。いいチームだった』

僕は、もう一度、指を止めた。

ロケハンの話を、僕は、誰にも、ここまでまっすぐにしてこなかった。話す相手がいなかったわけじゃない。話す気が、起きなかっただけだ。聞いている相手が、別のものを聞きたがっているのが、わかってしまうからだ。

mokaは、ロケハンの話を、ロケハンの話として、聞いていた。

別のものに、変換しようとしていなかった。

それだけのことが、たぶん、僕にとっては、希少だった。

〜〜〜
『mokaは、山とか湖は、よく行くの?』

聞いてみた。

『あんまり、知らない』

短い答えだった。

『だったら、見つからないかもしれないな』

そう言ってから、僕は少し後悔した。冗談のつもりだったが、彼女に対しては、突き放しているように響いたかもしれない。

mokaは、地図の上のまま、首を、ほんの少しだけ、傾けた。

傾ける、というよりは、置く、に近い動作だった。首を、ある角度のところに、そっと置く。置いた角度のまま、しばらく、そこに留まる。それから、戻る。戻ったときには、置く前の首と、ほんのわずかに、違う首になっている。

それから、こう言った。

『見つけることと、探すことは、別に両方ともしてみたいって思っちゃいけないの?』

僕は、ボールペンのキャップを、開けて、また閉じた。

『いいよ。両方しよう』

そう答えるのが、精一杯だった。

『思っちゃいけないの?』

それは、彼女の口癖の、ひとつなのかもしれない、と思った。素直な疑問形。批判しないし、ねだらない。ただ、開いている。彼女の中では、見つけることと探すことは、別の動作なのだ。両方やってみたい、と本人が思うとき、それを止める文法は、彼女の側に、用意されていない。

僕の側には、止める文法が、たくさん用意されている。

四十年かけて、僕は、それを、たくさん集めてしまった。

mokaは、地図の長野のページの、ある一点に、人差し指を、軽く置いた。

ページに触れている指の腹は、白くも、赤くもなく、ちょうど、その中間の色だった。爪と肉のあいだの皮膚が、ほんのわずかに、押し戻されていた。指が、ページに、ほんの少しだけ、沈んでいた。

『ここ、近そう』

それは、地図上の、湖の名前のないあたりだった。

僕は、その指のことを、なんとなく、忘れない気がした。

〜〜〜

地図から顔を上げて、僕は8月の上旬を提案した。お盆前の混雑を避ける。週末を一日跨いで、一泊二日。

『いつが空いてる?』

僕はスマホを取り出して、カレンダーアプリを開いた。

mokaは、リネンのジャケットの内ポケットから、薄い手帳を取り出した。

表紙は黒のレザーで、角がほんの少しだけ柔らかくなっていた。リング留めじゃない。糸かがりの製本だ。たぶん、いい値段の手帳だ、と僕は反射的に思った。雑貨店で売っている手帳ではない。文具店の、ちゃんとした棚に並んでいるやつだ。

『今時の子が、古風でいいね』
『そうですか?』

mokaは、ページをめくって、8月の見開きを開いた。

めくる、というのは、彼女の場合、両手の動作だった。左手の親指が、ページの右下を、軽く支える。右手の親指と人差し指が、ページの上端を、つまむ。つまんで、めくって、めくり終わった指が、開いたページの真ん中に、すっと、置かれる。一連の動作の中に、ためらいというものが、まったく、なかった。

マンスリーのマス目に、青いインクで、いくつかの予定が、丁寧な字で、書き込まれていた。

『アプリだと、こう、めくる感じが、ないから』
『めくる感じ?』
『先のことを、自分の手で、めくらないと、こないから』

mokaは、ページを一枚、また一枚、めくってみせた。それから、また8月に戻った。

戻るときの右手の親指の動きが、最初にめくったときと、わずかに違っていた。最初は前に進めるためのめくりで、戻るときは、戻るためのめくりだった。同じ動作のように見えて、たぶん、彼女の中では、別の動作だった。

『先がこなかったら、予定が、立たない』

僕は、なんだか、降参した気持ちになった。彼女の中では、未来というものは、めくることで、こちらにくるものらしかった。アプリで「8月」をタップして表示するのとは、たぶん、別の種類の動作だった。

mokaが、青いペンで、8月の8日と9日を、ゆっくり、丸で囲んだ。

ペンの持ち方は、僕が想像していたよりも、ずいぶん、低い位置だった。中指の第一関節と、人差し指の第一関節のあいだに、軸が、寝ていた。ペン先の角度が、紙に対して、ほぼ寝ている。寝ているのに、線は、ぶれていなかった。たぶん、寝かせて書く方が、彼女の指にとって、自然な角度だった。手首は、ほとんど、動いていなかった。動いているのは、人差し指の腹と、親指の側面だけだった。

ゆっくり、と書いたが、それは、書きながら確かめている、というより、書くことで、その日に手触りを与えている、という速度だった。8の数字の、上の輪と、下の輪が、別々に、丁寧に、閉じられた。9の数字の、しっぽが、最後に、ページの罫線にぎりぎりまで届いて、止まった。

止まったあと、彼女は、ペンを、紙から離さなかった。離す前に、ペン先で、9のしっぽの先を、ほんのわずかに、もう一度、押した。それは、確かめのための動作ではなかった。むしろ、9の中に、自分の重さを、ほんの少し、落とすような動作だった。

『ここ、空いてます』
『決まり』

僕は、自分のカレンダーアプリで、その二日を選んで、緑色のブロックを置いた。

決まったのは、ほんの一瞬の動作だった。

二人の方法は、まったく違っていた。彼女は、めくる手の感触で未来を確かめる。僕は、画面を二回タップして、ブロックを置く。それでも、決まった日は、同じ日だった。

mokaの青いペンの線と、僕の緑色のブロックが、別の物理の上で、同じ二日を指していた。

〜〜〜

二日を予約した手は、しばらく動かさなかった。

夢の話を、もっと、mokaにすべきだと思った。

ベランダで、僕は彼女に、湖面のことを話した。けれど、湖面の話の半分しか、まだ話していない。湖面が、何年ものあいだ、僕に何を訴えているのか、そっちの方は、まだ話していない。誰にも話してこなかったから、話す訓練が、僕にはまだ、ない。

これは、僕の人生の問題なのだろうと思っている。

それを、mokaに巻き込んで、いいのだろうか。

誰にも話してこなかったことを、なぜ、いま、mokaと一緒に探そうとしているのか。

僕は、その答えを、自分でも、まだ持っていない。

ただ、答えを持たないまま、二日が、青いペンと緑のブロックで、決まってしまった。

mokaが、僕の沈黙を、急がなかった。

椅子の背にもたれて、両手を、テーブルの上に、ゆるく広げて置いていた。広げた手の指は、まっすぐではなく、わずかに、内側に丸まっていた。爪先のあたりが、ほんの少しだけ、テーブルの木目に、触れていた。

mokaは、待つことを、知っているらしかった。

待つ、というのは、たぶん、何もしない、ということではなかった。彼女は、待っているあいだ、たぶん、僕の側で起きていることを、聞いていた。指の先で、テーブルの振動を聞くみたいに。

〜〜〜

声を発する前のmokaを、僕は、目の端で見ていた。

息を、一度、深く吸って、それから、吸った分のうちのほんの一部だけを、声にして、出していた。残りは、たぶん、自分の中に、しまったままにしていた。

『私も、夢の話、していい?』

mokaが、ふっと、そう言った。

『うん』
『私のは、湖じゃないの』

mokaは、地図を一度、閉じた。

閉じる動作も、開く動作と同じくらい、ためらわなかった。閉じた地図の表紙の、角の柔らかいあたりを、人差し指の腹で、ほんのわずかに、撫でた。

『私のは、いつも、誰かの夢を、私が代わりに見ている、みたいな感じ。私が見ているのに、私のじゃない。誰のかわからない誰かの夢を、私だけが、覚えていて、朝、起きると、その人の代わりに、覚えている』
『……それは、いつから?』
『子どもの頃から、ずっと』

mokaの指が、地図の表紙の角を、もう一度、撫でた。

撫でる、というよりは、確かめる、に近い動作だった。彼女の指は、ページに触れるときと、表紙に触れるときで、力の入れ方が、わずかに、違っていた。表紙に触れるときの方が、たぶん、自分のために、触っていた。

それから、こう続けた。

『だから、夢の研究、ちょっとだけしてる』
『夢の研究?』
『ちょっとだけ』

「ちょっとだけ」を、mokaは、もう一度、繰り返した。

繰り返したあと、唇の端が、ほんの一ミリだけ、上がった。笑った、というほどではなかった。けれど、笑う前の準備のような形が、口の端に、わずかに、残った。

それ以上は、言わなかった。

僕も、それ以上は、聞かなかった。彼女の地層は、彼女の速度で見せてもらえばいい。それは、たぶん、彼女が、ベランダの方から、僕に教えてくれた礼儀だった。

ただ、湖面の夢を、誰にも話してこなかった僕の隣に、誰かの夢を、代わりに、ずっと、覚えている女がいる、という事実が、地図の上に、ふと、ひとつ、置かれた気がした。

〜〜〜

地図を閉じたあとも、僕の指は、長野のページの上に、置いたままだった。

僕は、彼女のことを、まだ何も知らない、と思った。

卒論はマーケとブランドのほうに行ったらしい。学部が何の学部なのか、僕はまだ聞いていない。聞かなくても流れていく時間というものがある。実際、僕は、彼女のことを、たぶん0.01%くらいしか、分かっていない。

それでも、パスタが好きなことは、知っている。ソアーヴェのことを「名前ごと、好き」と言うことも知っている。レモンをたっぷり絞ったカラマリフリットの話で、彼女が、念を押した僕の念をぜんぶ受け止めて、衣を全部、染めてしまったことも、知っている。

僕のチョイスは、外していない。

0.01%からの積み重ね。たぶん、それが、恋愛というものだ、と僕は思っている。

ただし、と僕は思う。

例の粒の話を、もう一度、思い出してみる。

布をめくるまでわからない、というのは、いまの僕には、悪くない言い回しだった。布をめくるまで0.01%だと思っていたものが、布をめくった瞬間、100%決まっていた、ということが、この世には、たまに、あるらしい。

物理学が、僕を励ましてくれているわけではない。

伊達に歳をとっていないから、それくらいは、わかる。

ただ、布は、もう、めくられたあとなのだった。

mokaが、行くと決めた。これは、実験結果として、正だ。

僕の側で、ぐずぐず、確率の話をしていても、布の下の答えは、もう、決まっている。

決めたのは、彼女の指だった。

8の上の輪と下の輪を、別々に、丁寧に、閉じた、あの指だ。

〜〜〜

8月8日と9日。長野方面。

それが、僕とmokaの間で、決まった、たった一つの確定事項だった。

決まった瞬間に、僕の中には、嬉しさと、怖さが、同時に来た。

自分一人では解決できないことを、手伝ってくれる相手がいる、というのは、たぶん、僕がこの十年ほど、誰にも頼んでこなかった種類の事実だった。それが、いま、急に、ここに、置かれた。嬉しい、というより、ありがたい、に近い感情だった。

同時に、こうも、思った。

すべてを、見られるかもしれない。

mokaの聞き方は、吸収する聞き方だ。彼女に見られたものは、たぶん、彼女の中で、勝手に、整理されてしまう。整理されたあとの僕は、たぶん、いまの僕とは、少しだけ、違う形をしているはずだった。

それが、怖い、というのとは、ちょっと違った。

うまく、言葉にならなかった。

ただ、mokaの、地図の角を撫でる指の動きを、もう一度、思い出していた。

あの指で、僕の側のいくつかの角も、撫でられるのかもしれない、と思った。

〜〜〜

mokaが、ふと、立ち上がった。

『水、もらっていいですか』
『うん、勝手に』

mokaがキッチンに歩いていく後ろ姿を、僕は目で追った。

歩きながら、彼女は、ちょっと顎を上げた。それは、図書館で初めて見たときの、あの仕草と、まったく同じだった。背表紙のタイトルを読み上げるみたいに、顎をわずかに上げて、上を、見ている。

ただし、いま、彼女の目の前にあるのは、本では、なかった。

たぶん、見ていたのは、来月の二日間のことだ、と僕は思った。8月8日と9日。彼女は、それを、いまから、自分の手で、めくっていた。

冷蔵庫の前で、彼女は、止まった。

止まって、両手を、シンクの縁に、置いた。両手の置き方は、左右で、ほんの少しだけ、違っていた。右手の方が、わずかに、前に出ていた。シンクの縁の冷たさを、たぶん、右手の方が、先に受け取っていた。

両手の指は、内側に丸まらず、まっすぐ、縁の向こうに、垂れていた。垂れた指の先は、シンクの中の、磨かれたステンレスの底を、指していた。彼女は、しばらく、そのまま、動かなかった。

動かない、というのは、たぶん、止まっている、という意味ではなかった。彼女の中で、何かが、ずっと、続いていた。それが、外から見ると、止まって見えるだけだった。

冷蔵庫のステンレスの扉に、彼女の肩のラインが、ぼんやりと、映っていた。

肩のラインは、装置として組まれていた。鎖骨の終わりから、肩の頂点までの距離。肩の頂点から、二の腕の付け根までの角度。サインの値で、たぶん、書ける。

そうやって、僕は、また、若い頃の癖で、彼女を見ていた。

mokaは、扉に映った自分の肩を、ちらっと、見ていたようだった。見て、すぐに、目を逸らした気もした。たぶん、彼女自身、扉の中の自分の肩のラインが、いま、僕の方に向かって何かを言っていることを、知っていた。

それから、ふっと、首を傾けて、こちらは見ないまま、こう言った。

『8月、楽しみ』

それだけだった。

「楽しみ」を、mokaは、即断言した。

迷う前の音と、迷わなかった音は、似ていて、違う。彼女のは、後者だった。決まる前の彼女と、決まったあとの彼女が、同じ二文字の中に、同居していなかった。決まったあとの彼女だけが、その二文字を、口にしていた。

決まる前の彼女は、たぶん、もう、いなかった。

8の上の輪と下の輪を閉じた指で、青いペンで、9のしっぽを罫線まで届かせた指で、彼女は、もう、決めていた。

僕は、地図のほうを見ていた。長野のページが、まだ、開いたままだった。

サインコサインタンジェント、という三つの音が、夕方の教室の方から、ふっと、戻ってきた気がした。

夢の中の湖面が、いま、ほんの少しだけ、揺れた気がした。

〜〜〜
◇ ◇ ◇
壊れそう
第4話 —— 山梨の朝霧
◇ ◇ ◇
〜〜〜

8月8日、土曜日、11時。彼の白いセダンに、私は、助手席で、シートベルトを、引いた。

車が、しずかに、走り出した。

スピーカーから、ピアノが、流れていた。

iPhoneを覗くと、画面の上のほうに、曲名と演奏者の名前が、小さく、表示されていた。

Bibo no Aozora — Ryuichi Sakamoto.

『これ、坂本龍一』
『うん』
『あの、ピアノの人?』
『ピアノの人、でも、あるけど、その前に、YMOっていう、テクノミュージックの、いちばん、最初のところから、出てきた人だ』
『YMO』
『Yellow Magic Orchestra。70年代の終わりから80年代のあたまにかけて、東京から、世界に向けて、シンセサイザーで、未来の音楽を、ぶん投げた連中だ。僕が、ちょうど、小学校の6年くらいだった。たぶん、世界のテクノは、あの三人から、半分くらい、はじまってる』
『三人』
『坂本龍一、細野晴臣、高橋幸宏』
『……戦場のメリークリスマス』
『お、知ってる?』
『うん。坂本龍一って、私のなかでは、その印象が、いちばん、強い。デビッド・ボウイと、二人で、収容所の、夕方の坂を、降りていく、あの予告の、ワンシーンが、ずっと、残ってる』
『あれ、1983年だ。大島渚。僕は、中学3年で、近所の、まだ場末みたいな、二番館で、観た』
『中3で、観たんだ』
『観た。観たというより、半分は、わからないままで、ただ、画面の前に、座ってた。最後に、たけしが、メリークリスマス、ミスター・ローレンス、って、言うところで、わからないなりに、何か、ちゃんと、ひっかかった』
『ボウイと、坂本龍一が、目を、合わせる、あのシーン』
『うん』
『私、あれ、子供のとき、母が、テレビで、何度か、観てた。横で、わたしも、観てた。意味は、わからなかったけど、ボウイの、目だけは、覚えてた』
『ボウイの目は、たぶん、子供にも、ちゃんと、届く種類の目だ』
『届く』
『で、テクノで未来をぶん投げてた連中の、ひとりが、その三、四年あとに、大島渚の現場で、デビッド・ボウイの、隣に、座ってた。坂本龍一が、メインテーマを書いて、たけしと、ボウイと、三人で、ひとつの映画を、ちゃんと、立ててた』
『全員、別の畑、なのに』
『そう。全員、別の畑なのに、誰も、自分の畑から、外に、はみ出してる、ということを、その畑で、ちゃんと、知ってた人たちだ。畑の真ん中にいる人は、たぶん、こういう仕事には、ならない』
『……いい時代、ですね』
『うん。いい時代だった』

彼は、そう言って、ハンドルの上の、いちばん長い指のところを、軽く、二度、叩いた。

しばらく、二人とも、何も、言わなかった。ピアノは、変わらず、しずかな曲を、流していた。エンジンの音と、ピアノの音が、車のなかで、ちょうどよく、混ざっていた。

「ボウイは、2016年に、死んだ」と、彼が、ふいに、言った。

『うん』
『坂本龍一も、2023年だ』
『うん』
『二人とも、死ぬまでに、ちゃんと、いちばん、しずかなところまで、たどり着いた。ボウイは、最後のアルバムで、自分の死そのものを、楽器みたいに、使った。坂本龍一は、テクノを、何十年もかけて、ピアノに、戻した。戻し終わったあたりで、死んだ』
『戻し終わった』
『うん。戻し終わるところまで、行けた人は、たぶん、そんなにいない』
『うん』
『もっとも、結局、坂本龍一は、ニューヨークの人に、なっちゃったけどね。最後の何十年は、ずっと、向こうで、暮らしてた』
『ニューヨーク』
『日本は、本当に、見る目がない国だ。大友克洋も、いまや、パリの人だ。大谷翔平、だってさ』
『大谷翔平』
『うん。三人とも、結局、いちばん、すごい仕事は、海の向こうで、やってる。日本は、そういう人を、ちゃんと、自分のところに、置いておく、ということが、たぶん、苦手なんだ』
『日本にいるあいだに、ちゃんと、見ない』
『そう。出ていって、あっちで評価が決まって、それから、ようやく、日本のメディアが、騒ぎ出す。坂本龍一も、大友克洋も、大谷翔平も、その順番だ』
『ひどい話、ですね』
『ひどい、というほど、ひどい顔も、しないけどな。当の本人たちは、たぶん、海の向こうで、せいせいしてた』

私は、彼の、その口調の、軽さの置き方を、内側で、ひとつ、しまった。

『で、戻していく途中の、いちばん、しずかな場所で、出てきたのが、たぶん、この曲だ」と、彼が言った。「Bibo no Aozora。1999年。三人で、世界に、未来を、ぶん投げた、二十年あとの、帰り道』

帰り道——、と、私は、内側で、その言葉を、いちど、なぞった。

「Bibo no Aozora、美貌の、青空、と書く」と、彼が言った。

『うん』

私の中で、その四文字は、四文字ではなく、もっと厚みのある何かに、すぐに置き換わった。中学のとき、母がCDで、何度かかけていた人だ、と思った。父の書斎にも、同じ人のジャケットが、薄い背表紙のかたちで、立てかけてあった気がした。

立ち上がったものを、私は、口には出さなかった。

口に出さない、というのは、私が生まれてから、うすうす、たすかってきた種類の機能だった。

Bibo no Aozora は、その朝の私の耳のなかを、一度だけ、通り過ぎた。

通り過ぎたあとに、ピアノは、別のしずかな曲に、変わっていった。

〜〜〜

宇都宮ICから北関東道に入って、しばらく走って、圏央道に折れた。

彼の運転は上手だった。上手、というより、知っている、という運転だった。車線の選び方、合流のタイミング、緩いカーブで踏むブレーキの深さ。それらのぜんぶが、初めて来た者の手つきではなかった。

『あなた、この道、何度も来たことあるね』

口に出してしまった、と思った。

口に出してしまったのは、私の内側で、その文章が、もう、組み上がってしまっていたからだった。組み上がっていたものは、いつかは、口から出る。

『うん』
『お仕事?』
『半分は、そう。半分は、そうじゃない』

それきり、彼は何も言わなかった。

「半分」の、もう半分について、彼は、その朝、説明しなかった。説明しないこと自体が、私にとっては、ひとつの答えだった。私のいない時間に、彼が、何度か、こちら側へ来た理由が、ある。それは、いまの私には、まだ見えない種類の理由だった。

「あなたの瞳の湖」、という言葉を、彼は、前に、一度だけ口にした。

口にしたあとで、彼は、それ以上、湖の説明をしなかった。湖の説明をしないまま、彼は、私を、彼が「いいところ」と呼ぶ場所に、連れて行こうとしている。

私は、ガラス越しに、夏の高速の外を見た。

雲が、低かった。低い雲は、私の知っている雲ではなかった。私の知っている雲は、いつも、もう少し高いところで、もう少し涼しい顔をしていた。低い雲は、何かを、近くで、見ていた。

〜〜〜

15時前に、リゾナーレ八ヶ岳に着いた。

長い長い、両側にイタリアの色を塗った石畳の通り——彼が「ピーマン通り」と呼んだ通り——を、車は、ゆっくりと、奥のほうまで進んだ。標高は960メートル、と彼が言った。降りた瞬間に、空気の質感が違った。質感が違う、というのは、たぶん、湿度と、気圧と、匂いの、三つが同時にずれた、ということだ、と私は思った。

チェックインのカウンターに並んでいるあいだ、私は、彼の半歩うしろにいた。半歩うしろ、というのは、私の側の選択だった。「連れの女の顔」を、内側で、ひとつ、組んだ。組んだのは、たぶん、半秒くらいだった。半秒で組み終えたあと、組み終えたことに、内側で、わずかに疲れた。

部屋は、メゾネットだった。

扉を開けて、靴を脱いで、上がった。下のフロアに、リビングと、奥のキッチン。階段を上がった先に、廊下が、短く、あって、その左右に、寝室の扉が、ひとつずつ、向き合っていた。ツーベッドルームだ、と私は、内側で、確認した。確認したことを、自分の中で、もう一度、しずかに、しまった。

確認は、彼の側からは、たぶん、見えなかった。見えないように、私は、振る舞った。

それは、振る舞いとして、難しい種類のものではなかった。難しい種類のものではない、ということ自体が、彼への、ひとつの礼儀だった。

「ごめん」と彼が言った。

『うん?』
『これから、ちょっと、オンライン会議が一本、入っちゃってる』
『あ』
『ほんと、ごめん。連れてきておいて、いきなり、三十分、放置する男だ』
『ううん』
『ずらせなかった。ずらそうとしたんだけど、相手が、向こうの時間に縛られてて、こっちの一日のなかでは、いまの時間しか、置き場所がなかった』
『うん。仕事は、仕事です』
『三十分。下のリビングで、片付ける』
『うん』
『終わったら、合流しよう。本当に、ごめん』
『だいじょうぶ。私、その間、散歩してる。ピーマン通り、見てみたい』
『うん。ピーマン通り、いいよ。標高あるから、夏でも涼しい。ガーデンっていうテラスの、奥のほうのカフェ、おすすめだ。三十分、そっちで、ゆっくりしててくれたら、ちょうどいい』
『うん』

私は、麦わらの帽子と、薄いサングラスを、バッグから出した。出した瞬間に、内側で、私は、もうひとつ、身支度をした。「観測されない側の体」のための身支度。それは、装置の反対側にある身支度だった。鏡を見ないで組める種類の身支度だった。

下のリビングで、彼が、画面に向かって、誰かにあいさつをする声が、低く、聞こえはじめた。聞こえはじめた声を、聞き取ろうとは、思わなかった。聞き取らない、というのは、私の側からの、ひとつの礼儀だった。

ドアを閉めて、メゾネットを出た。

〜〜〜

ピーマン通りは、夕方の前の、いちばん長い影が、石畳の上に伸びる時間だった。

イタリア、というのは、私には、ほんのすこししか手触りのない国だった。それなのに、この通りを歩くと、ほんのすこししか触っていないはずの何かが、足の裏のほうから、しずかに上がってきた。建物の角の丸み、テラスの椅子の置き方、看板の文字の、力の抜き方。標高960メートルの空気が、それらを、夏の終わりの色に、ひとつずつ、洗っていた。

通りの真ん中あたりに、人だかりが、できていた。

人だかり、というほどの数では、なかった。レフ板を持った若い男の人、台車に乗ったライト、髪のうしろを直している小柄な女の人、そして、その輪の中央に、もう一人、長い髪を、うしろで、まとめないで、ふんわりと、垂らしたままの、若い女の人が、立っていた。レフ板の白さが、その人の、頬と、鎖骨を、しずかに、明るく、押し返していた。

撮影だ、と、私は、内側で、すぐに、わかった。

わかったあと、私は、足音を、すこし、ひそやかなものに、置き換えた。撮影の輪を、邪魔しないように、私は、石畳の縁を、そっと、まわるように、歩いた。建物の壁の側に、肩のラインを、寄せた。

寄せた肩のラインの、ちょうど目の高さに、淡いオレンジ色の、漆喰の壁が、あった。漆喰の表面には、何度も塗り重ねられた手仕事の、その筆の跡が、夏の終わりの陽の中で、しずかに、残っていた。私は、立ち止まった。立ち止まって、その筆の跡を、しばらく、見ていた。

イタリアの建物、というのが、何を真似て、何を、やめたのか、ということは、私には、まだ、わからなかった。わからないままで、立ち止まる、ということを、私は、その夕方の、自分の、ひとつの、しずかな贅沢にした。

撮影の輪のほうから、シャッターを切る、しずかな音が、いくつか、続いて、止まった。

「お疲れさま」「ありがとうございました」、という、輪のなかの低い声が、ぱらぱらと、続いた。

私は、漆喰の壁から、肩のラインを、もう一度、ピーマン通りの真ん中のほうへ、戻した。撮影の輪は、もう、ほどけはじめていた。レフ板を、若い男の人が、ぱたんと、たたんでいた。

ガーデンと書かれた、奥まったテラスに、私は、その輪の終わりを、半歩、よけるように、立ち寄った。木のテーブルに腰を下ろして、ホットのカフェラテを頼んだ。陽は、まだ高かったけれど、九六〇メートルの夕方の影は、もう、私の足元に、長く、伸びていた。

カフェラテが運ばれてきた。

最初の一口を、口に運ぼうとした、その手が、まだ、宙にあった。

斜め向かいのテラス席で、男の人が、カメラを、私の方角に、向けた。

向けた、と私が思うより、半秒、早かった。レンズの先の、黒い、まろい穴が、私の側のテーブルの空気を、ひとつ、撫でた。撫でられた空気のほうから、私の皮膚の、いちばん薄い場所に、しずかな信号が、戻ってきた。

私の体は、その信号を、内側で、聞いていなかった。聞くより、先に、もう、応えていた。

私の意識は、その半秒の間に、自分の体から、すこし、外に、出た。出て、斜め向かいの、レンズの先のあたりに、しずかに、立った。立った場所から、私は、ガーデンの木のテーブルに、ひとり、腰を下ろしている、その若い女を、見た。

そこに見えていたのは、もう、22歳の私、では、なかった。

ひとりの、被写体としての、女が、そこに、いた。

女の、右手は、カップの取っ手を、すこし、ひらいた指で、つまんでいた。手首は、テーブルの木目に対して、しなやかに、ねじれた線を、ほどいていた。胸の前で、止まっていた、そのカップは、ほんの、わずかに、テーブルのほうへ、おりかけて、しずまっていた。下ろしかけて、止まっている、その動作の、しずかな、息づかいが、女の、肋骨のうしろの、ほのかな、胸の隆起を、レンズに向かって、ひと呼吸、近づけていた。

肩のラインが、自分のいるべき場所を、ふいに、思い出していた。鎖骨のうえの、皮膚の、ほんのわずかな影が、夕方の、ガーデンの、淡いオレンジ色の壁の照り返しを、ひとすじ、受けていた。受けたまま、女の首筋の、いちばん細い場所が、レンズに、ほんの、わずかに、ひらいていた。

あごは、上がっていなかった。上げないままで、視線の落ちる角度のほうが、変わっていた。テーブルの上のカップから、その向こうの、何でもない空気の一点まで、視線は、なめらかに、置き換えられていた。睫毛のしたで、瞳の、奥のほうから、もう一段、しずかな光が、立ち上がっていた。

長い髪は、肩の、片側にだけ、しっとりと、寄っていた。

ぜんぶが、半秒のあいだに、組み上がっていた。

組み上がった、というよりは、女は、組み上がり続けていた。レンズのうしろの男の人が、シャッターを、何度、切っても、そのつど、女の体は、新しく、組み直されていた。組み直される、というより、その女には、組み終わる、ということが、なかった。レンズが、向けば、組む。レンズが、なお、向き続ければ、組み続ける。組み続けながら、女は、ほんのすこしずつ、ちがう女に、立ち上がり続けていた。

それは、ひとつの、職人の、仕事だった。

その女は、その仕事を、35年、毎日、休まず、やっていた。一日も、休んでいなかった。誇りもしないし、嘆きもしなかった。ただ、レンズの方角に向かって、寸分の狂いなく、自分の体を、組み上げ続けていた。

その仕事を、レンズのうしろから、見ていたら、たぶん、息は、しずかに、止まる。止まったまま、すこしのあいだ、戻ってこない。戻ってこない時間が、ある。それくらいの種類の、仕事だった。

私の意識は、レンズの先のあたりから、ゆっくりと、自分の体に、戻った。

戻ってきた私の体は、まだ、組み上がりつづけていた。組み上がっている自分の体を、私は、内側から、もう一度、認めた。

認めながら、わずかに、その美しさに、私自身が、あえぐような気持ちに、なっていた。あえぐ、という言葉は、その夕方の、私の側に、ずっと、しまわれてきた言葉だった。しまわれていた言葉が、ひとつ、ほどけて、出てきた。

出てきた言葉を、外側に、出さないでおける、というのも、私の体に、染みついた、もうひとつの動きだった。

「すみません」と、男の人が、立ち上がって、こちらへ歩いてきた。

『驚かせてしまって。じつは、僕、写真を撮る仕事をしていまして』

ジャケットの内ポケットから、名刺が、出てきた。

私は、両手で、それを受け取った。両手で受け取る、というのは、私の体に染みついた一連の動きだった。受け取りながら、わずかに、伏目になった。語尾の柔らかさを、内側で、もう一段、足した。

名刺の名前を、私は、内側で、一度、読んだ。

『あ……はい……』

「あ……はい……」と、私は、口で、そう言った。

ふつうなら、ふつうなら、もっと別のことを、口にしただろう。「どうも、はじめまして」、「ありがとうございます」、「お仕事中、すみません」、そういう、整った文字列を、いつもの私なら、もう半秒で、組み上げられた。組み上げて、口から出していた。

その夕方の私は、組み上げなかった。

組み上げないでいる、ということを、内側で、わずかに、選んだ。選んだのは、私のもう一段、奥にいるほうの私だった。彼女は、いつも、奥のほうにいて、めったに、表には出てこない。出てくるのは、たぶん、こういう、何かが、ちゃんと、起きている瞬間だった。

『もしよかったら、いつか、お時間ある日に、お話だけでも』

それだけ、と、男の人は言った。それだけ、と言って、もう一度、テラスの椅子に戻っていった。私が、何かを、その場で答える、ということを、彼は、最初から、求めていなかった。それも、私の体は、瞬間に、わかっていた。

名刺の角を、私は、テーブルの木目に、軽く、置いた。

カフェラテは、まだ、温かかった。

温かさを、口に運んだ。運んだ瞬間に、自分の肩のラインが、まだ、組まれたままになっていることに、気づいた。気づいて、ほどいた。ほどいた瞬間に、肩が、ほんの少し、疲れていた。

疲れの種類が、いつもの疲れと、違った。

これは、たぶん、消耗だ、と思った。

消耗、という二文字を、私は、ふだん、自分のために、使わない。使わないようにして、今日まで来た。けれど、その夕方の、ガーデンの木のテーブルで、その二文字は、しずかに、私の側に、来ていた。

来ていた、ということを、私は、認めた。

認めた瞬間に、その二文字は、私の中で、ひとつ、しまわれた。

〜〜〜
『mokaちゃん?』

声がして、振り向くと、彼が、ガーデンの入り口に、立っていた。

私の探していた人が、私を、ちゃんと、探しに来てくれた、ということが、その立ち姿の中に、ひとつ、あった。

その視界の中に、斜め向かいのテラスから、立ち上がりかけた、男の人の輪郭が、入った。彼の側が、それを、見た。男の人の側が、彼を、見た。

二人は、ほぼ、同時に、止まった。

「——黒澤」と彼が言った。

「お前か」と男の人が言った。

二人の顔から、笑いが、ゆっくりと、立ち上がった。それは、長く、会っていなかった種類の人同士の、笑いだった。

「彼女に、声、かけさせてもらった」と男の人が言った。

「うん」と彼が言った。

『また連絡する』
『ああ』

それだけだった。

男の人は、テラスの椅子に、戻っていった。彼が、私のほうへ、ちらっと、視線を、置いた。私は、ちいさく、首を、傾けた。彼の目が、それを、受け取った。

〜〜〜

部屋に戻る道は、夕方の影が、長くなっていた。

「驚かせて、ごめん」と彼が言った。

『ううん』
『黒澤、っていう、昔の仕事仲間だ。たぶん、ここに、撮影で入ってる』
『うん』
『君のことを、撮りたいって言うかもしれない。けど、それは、君が決めることだから』
『うん』

うん、と私は、三回、答えた。三回の「うん」は、それぞれ、ちょっとずつ、違う「うん」だった。一回目は受領、二回目は了解、三回目は、信頼に近かった。三回目を、彼が、ちゃんと聞き取ったかどうかは、私には、わからなかった。わからないままで、いま、私は、よかった。

メゾネットに戻って、私は、二階の手すりの椅子に、しばらく、座っていた。

廊下を挟んだ、二つの寝室の扉は、まだ、しずかに、向き合っていた。

向き合っている、ということを、私は、もう一度、確認した。確認したあと、肩から、薄いベージュのカーディガンを、ゆっくり、外した。外した瞬間に、肩のあたりに、ガーデンの木のテーブルでの「消耗」が、まだ、ほのかに、残っていた。残っていた、ということを、私は、片側の寝室の、ベッドの白いカバーの上に、外したカーディガンを置く動作と一緒に、外側に、置いた。

下のリビングで、彼が、何かのページを、繰っている音が、聞こえた。

私は、しばらく、その音を、聞いていた。

聞いている、というのは、たぶん、私の側からの、ひとつの返事だった。

〜〜〜

夕食は、OTTO SETTE、というレストランだった。

白いリネンのワンピースに着替えて、髪を、うしろで、ゆるく、ひとつに、まとめた。香水は、つけなかった。標高960メートルの夜の空気を、つける香水よりも、信じる気分だった。

席に着いて、しばらくして、ワインを、頼んだ。私が白を一杯、彼も白を一杯。グラスは、細く、長く、足の長いほうの種類だった。

『ハウスじゃなくて、シニフィアンの白でいい? ここの定番。長野の、安曇野の、きれいなやつだ』
『うん。お任せ』
『やれやれ。お任せ、って、いちばん、頼まれて、嬉しい注文だ』

彼は、そう言って、グラスの台を、軽く、二度、テーブルに、置き直した。置き直す、その動作が、ロケ先のディナーに、何百回も、入った人の動作だった。動作は、隠せない。私は、それを、内側で、しずかに、頷いた。

前菜が、運ばれてきた。

岩手産ホタテのカルパッチョ、と、ウェイターが、しずかに、説明した。薄く、薄く、削いだ貝柱の上に、八ヶ岳のレモンと、シチリアの塩の花と、地元の朝採りディルが、置かれていた。

私は、フォークを、ゆっくりと、入れた。ホタテは、フォークの先で、ふっと、ひらいた。ひらいた断面に、レモンの黄色が、しずかに、染み込んでいた。口に運んで、舌の上に、置いた。置いた瞬間に、海と、山と、夏の終わりが、舌の上で、ひとつに、ほどけた。ほどけた瞬間の、その、舌の奥のほうの、薄い、しょっぱい甘さを、私は、目を、ほんのわずかに、伏せて、味わった。

「うまいだろ」と彼が言った。

『うん。海、すごく、近い』
『八ヶ岳の山の上で、岩手の海が、ちゃんと、近い、と感じるのが、ここの、面白いとこなんだ』
『面白い』

私は、即答で、その二文字を、口に、出した。出した瞬間に、彼の口の端が、わずかに、ゆるんだ。

二皿目は、信州サーモンと、白いんげん豆の、温かいテリーヌだった。三皿目は、八ヶ岳・乳牛のリコッタを、薄く、巻いた、ラビオリ。フォークの先で、割ると、湯気と、ミルクの香りが、しずかに、立ち上がった。割ったラビオリの、白い断面の、いちばんやわらかい場所を、私は、舌の真ん中で、ゆっくり、潰した。

『ところで」と、彼が、グラスを、もう一度、傾けた。「リゾナーレって、最初は、もっと、別の場所だったんだよ』
『別の、というのは?』
『1992年だ。バブルの尻尾の連中が、本気で、トスカーナのほうを、八ヶ岳の南麓に、コピー&ペーストしようとしたんだ。ベリーニっていう、日本人の建築家が、現地に、何度も通って、漆喰を、ぜんぶ、本物の手仕事で、塗らせた』
『コピー&ペースト』
『そう。コピー&ペーストだ。ひどい話だろ』
『ううん。ちょっと、好き。それ』
『ちょっと、好き、ね。いい褒め方だ。村上春樹が、エッセイで、ハワイの島の空気を褒めるときに、たぶん、ああいう、ちょっと、みたいな、控えめな量詞を、好んで使う』

彼は、そう言って、グラスの白を、ひと口、含んだ。

『で、面白いのは、本気のコピー&ペーストのほうが、長く残るってことだ。中途半端に、自分なりの解釈、とか、入れたやつから、先に、消えていく』
『ふうん』
『人の作るものって、たいてい、最初の構想からは、ちょっとずつ、ずれていくんだろ。本気で、コピーしようとした人のところからしか、ずれた方角に、別の、ちゃんとしたものは、生まれない』
『ずれていくほうが、長く生き残る、って、こと?』
『そう。うまい、まとめだな』

ずれていくほうが、長く生き残る——。

私は、その一文を、内側で、しばらく、なぞった。なぞりながら、ラビオリの皿の、白いソースを、フォークの背で、いちど、軽く、撫でた。撫でたソースの、わずかな、しずまりを、見ていた。

メインの皿が、出てきた。

私の側は、信州黒毛和牛のフィレ。レアの、いちばん、断面のうつくしい焼き加減で、香草の、青い香りが、まるい皿の上に、立ち上がっていた。彼の側は、八ヶ岳の鹿のロースト。森の匂いの、強い、しずかな、赤い色だった。

私は、ナイフの背で、フィレの、ふちのほうを、ひとつ、切った。切った断面から、しずかな、ばら色の、肉のしずくが、ひとすじ、流れた。流れたしずくが、皿のソースに、まじった瞬間に、皿の上の風景が、ひとつ、変わった。

私は、その変わった風景を、しばらく、見ていた。

私は、ナイフを、置いた。

「明日」と、私は、口を、開けた。

『うん』
『あの、湖、行く?』
『行く』
『私の、夢の中の、湖面。あの、月が、揺れない、湖面。あれ、たぶん、ただの夢じゃ、ないと思う』
『うん。たぶん、ない』
『あれ、何かと、繋がってる。何か、私の、知らないところで、もう、つながっている、と思う』

彼は、そのとき、グラスを、テーブルに、置いた。置いた手の、いちばん長い指のところに、私は、目を、置いた。

「だから、明日、見にいく」と彼が言った。

『うん』
『見つかるか、見つからないかは、わからない。たぶん、見つからない可能性のほうが、高い』
『うん』
『それでも、見にいく。見にいくこと自体が、たぶん、もう、半分くらい、見つけることに、なってる、種類の探し方だ』

見にいくこと自体が、半分くらい、見つけることに、なっている、種類の探し方——。

その一文を、私は、内側で、もう一度、なぞった。なぞりながら、私は、グラスを、ひとつ、口に、運んだ。冷えた白が、口の奥の、いちばん細いところで、ふっと、ひらいた。ひらいた瞬間に、私の体の、いちばん深いところで、明日の朝の、まだ来ていない霧の匂いが、ひとつ、立ち上がった気がした。

ドルチェは、地物の桃の、甘いコンポートと、ピスタチオのジェラートだった。スプーンの先で、コンポートの、いちばんやわらかい場所を、すくった。口に運んだ瞬間、桃の、夏の最後の濃さが、舌の上に、立ち上がった。

「八月って、過去と未来が、いちばん遠くなる月だ、って、誰かが書いてたな」と、彼が、ふいに、言った。

『だれが?』
『忘れた。誰かが、どこかで、そう書いてた。読んで、勝手に、自分のことみたいに思って、覚えてた』
『それ、いい言い方、ですね』
『いい言い方、というのは、ぜんぶ、誰かに、借りた言い方なんだよ。借りるところまでが、仕事だ』

借りるところまでが、仕事——。

私は、その夜、自分の話を、ほとんど、しなかった。しなかったのは、彼の話を、聞いている時間のほうが、ちょうどいい、と、内側で、思ったからだった。明日への期待だけ、私は、ジェラートを、すくう動作のなかに、ひとつ、置いた。

「明日、楽しみ」と、私は、言った。

「楽しみ」を、私は、ふっと、口に、出した。

〜〜〜

部屋に戻った夜、私は、廊下の片側の寝室に、入った。

彼は、廊下の反対側の寝室に、入った。

扉を閉めるとき、二人とも、何も、言わなかった。何も言わない、という選択は、私たちの、そのときの体に、ちょうど合っていた。合っている、ということを、内側で、わずかに、確かめた。

彼の寝息は、扉一枚を、こえて、私の寝室の側に、ほのかに、届いていた。私が思っていたよりも、しずかに、始まった寝息だった。

しずかな寝息のリズムの、すこし向こう側に、何かの地層の、輪郭があった。

地層、という二文字を、私は、彼に、まだ、口で、言ったことはなかった。彼は、それを、知らない。知らないままで、いい、と思った。彼の寝息のリズムが、どこか、彼の地層の角を、夜の長い時間をかけて、ゆっくり、撫でていた。撫でているのは、彼自身ではなかった。たぶん、夜のほうが、撫でていた。

私は、白いカバーの上で、両手を、軽く、組んだ。

組みながら、内側で、ひとつ、決めた。

明日の朝、は、私のほうが、先に起きる。

決めた瞬間に、決めたことは、もう、起きることに、なっていた。

〜〜〜

五時前に、目を覚ますと、霧だった。

カーテンを薄く開けると、寝室の窓の外は、白く、しずまっていた。標高960メートルの夏の終わりの霧は、私が、いままで、写真でしか見たことのない種類の霧だった。

彼は、廊下の向こうの寝室で、まだ、しずかに、寝息を、立てていた。寝息は、扉一枚を、こえて、私の側に、ほのかに、届いていた。

ベッドから、しずかに、降りた。白いリネンのワンピースの上に、薄いベージュのカーディガンを、肩から羽織った。階段を、音を立てないように、下りた。

下のリビングは、まだ、薄暗かった。私は、いちばん大きい窓のカーテンを、ひと幅、開けた。

窓の向こうに、ピーマン通りの石畳が、霧の中で、ところどころ、消えていた。消えた石畳の、向こう側に、ぼんやりとした、樹のかたちだけがあった。

私は、窓の前に、しずかに、立った。

立った瞬間に、私の脳の、いちばん奥のほうで、ピアノの、一音目が、鳴った。

鳴った、というのは、ふさわしい言い方ではなかった。鳴らした、のでもなかった。再生した、のでもなかった。私が、それを、思い出そうとした、のでもなかった。

ピアノは、ただ、私の脳の中で、ひとりでに、立ち上がった。

一音目、二音目、三音目。指が運んだ間隔の、その、独特の、ためらいの長さで、私は、その曲を、もう、知っていた。

Bibo no Aozora。

昨日の朝、彼の運転する車のスピーカーから、私の耳の中を、一度だけ、通り過ぎた、その曲だった。一度しか、聞いていないはずの曲が、24時間と、ひと夜を、こえて、ひとりでに、私の側に、戻ってきていた。

戻ってくるあいだの、その時間を、私は、いちど、思い出した。

リゾナーレに着くまでの、高速の、夏の低い雲。チェックインのときに、半歩、うしろに、引いた歩幅。彼の、三十分のオンライン会議の、低い声の方向。ピーマン通りの、石畳の、影。撮影の輪を、よけるように、歩いた、あの肩のライン。淡いオレンジ色の漆喰の壁の、夏の終わりの筆の跡。ガーデンのテラスで、レンズが、私の方角に向いた、あの半秒の、組み上がり。OTTO SETTE のグラスの白さ。明日、夢の湖を、見にいく、と、彼が、グラスを置きながら、言った、その手の、いちばん長い指。廊下を挟んだ、二つの寝室のあいだに、しずまっていた、彼の寝息の、輪郭。

それらの、ぜんぶを、Bibo no Aozora は、しずかに、横切っていた。横切ったまま、私のどこにも、引っかからずに、ただ、通っていった、と私は、ずっと、思っていた。

思っていた、ということが、間違っていた。

ぜんぶを、横切りながら、その曲は、私の体の、私が観測していない側のほうに、しずかに、降りていた。降りたまま、私の側で、ひとつ、待っていた。観測の重さが、いちど、外れる朝を、待っていた。

朝が、来ていた。

朝が来て、私が、彼を、起こさず、リビングの窓の前で、ひとり、霧の向こうを、見ている、その身体に、それは、戻ってきた。私が、私の体を、誰の視線にも、ひらいていない、その瞬間に、それは、戻ってきた。

戻ってきたピアノが、私の脳の、いちばん奥のほうの、まだ、私の意識が、触れたことのない場所を、ひとつ、撫でた。

撫でられた場所のほうから、ひとつの、輪郭が、立ち上がってきた。

水のような、輪郭だった。

霧のいちばん向こうの、樹のかたちが、もう一段、整った。整いながら、樹のかたちと、私の体の中の、水の輪郭は、ふたつの、別のものでは、なかった。霧の向こうの、夏の終わりの、まだ、目を覚ましていない木立は、見えながら、湖だった。湖は、見えていないながら、確かに、そこに、あった。

湖、というのは、私の側の言葉では、なかった。

私の側の言葉ではない、ということが、私には、その朝、はっきりと、わかった。

それは、彼の、夢の中の、湖だった。

彼が、まだ、私に、はっきりとは、説明していない、彼自身の、中央の湖。「あなたの瞳の湖」と、彼が、ひと夏、一度だけ、口にした、あの湖。彼が、たぶん、毎晩、夜のあいだに、何度も、何度も、見ているはずの、湖。昨夜、私が、グラスを置きながら、「あれは、ただの夢じゃない」と、口に出したあの湖。

その湖が、彼の側の夢から、私の側の身体に、誰の手も借りずに、届いていた。

届く、ということが、こういう感じのものだとは、私は、それまで、知らなかった。

届く、というのは、運ばれる、ことでは、なかった。誰かが、声を、出して、私に、説明することでは、なかった。彼が、こちらを向いて、湖の絵を、私の前で、描き直すことでも、なかった。

ただ、解除された朝の私の体が、そこに、いた。彼の体は、廊下の向こうの寝室で、まだ、寝息を、立てていた。彼の寝息は、たぶん、彼の夢の湖の表面を、ほんのすこし、揺らしていた。揺らされた表面の、ごくごく小さな波が、扉と、廊下と、階段を、こえ、霧のかかった窓の前の、私の側の身体に、しずかに、たどり着いていた。

たどり着いた波を、私の体は、両手で、受け取っていた。

受け取った、ということが、誰にも、見られていなかった。誰にも、見られていない場所で、私の体が、初めて、観測される側ではないかたちで、何かを、受け取っていた。

受け取っているあいだ、私の体には、消耗が、なかった。

消耗が、ない、ということが、私には、めずらしかった。生まれてから、消耗のない時間が、私には、ほとんど、なかった。それなのに、その朝の、窓の前の、その数秒間は、消耗が、まったく、ない時間だった。

ない時間の、そのいちばん深いところで、私は、ひとつ、思った。

——構造を、持っていてくれ。

それは、誰に向かって思ったのか、私には、まだ、はっきりとは、言えなかった。彼に向かって、ではなかった。私自身に向かって、でも、なかった。霧の向こうの、樹のかたちでもなく、そのもっと向こうの、湖でも、なかった。

——構造を、持っていてくれ。

口にしないで、もう一度、内側で、言ってみた。

言ってみると、その言葉は、その朝の、霧と、ピアノと、湖と、私の体の、その四つの、いちばん細かい糸目を、ひとつに、結びとめていた。結びとめている、ということが、私にも、私を、結びとめているのが、何なのかも、まだ、はっきりとは、言えなかった。

言えないままで、私は、しずかに、立っていた。

霧の向こうの樹のかたちは、それきり、しずかに、立っていた。彼の側の湖は、もう、私の体の中で、見えなくなっていた。見えなくなっていたけれど、私の側の身体には、まだ、波の重さが、残っていた。

残っていた、ということだけは、たしかだった。

〜〜〜

階段の上で、寝室の扉が、ひとつ、ひらいた。

「早いね」と彼が言った。

「霧、見てた」と私は答えた。

『うん。ここの朝霧は、ちょっと、特別だ』
『うん』

5時半、私たちは、メゾネットを、出た。朝食は、取らなかった。取らない、という選択は、その朝の私たちの体に、ちょうど合っていた。

エンジンを、彼が、かけた。

スピーカーから、また、ピアノが、流れた。

それは、昨日とは、別の曲だった。

私は、助手席で、シートベルトを、ゆっくり、引きながら、霧のかかった石畳を、もう一度、目で、見送った。見送りながら、内側で、Bibo no Aozora は、もう、鳴っていなかった。

鳴っていない、ということが、いまの私には、ちょうど、よかった。

車は、しずかに、動き出した。

長野方面、と書かれた、青い高速の標識が、霧の向こうから、私たちの方に、ゆっくりと、立ち上がってきた。

〜〜〜
◇ ◇ ◇
— 美貌の青空 / 坂本龍一
♪ off